徳川慶勝

徳川慶勝

概要

 徳川慶勝(とくがわよしかつ)文政七年甲申(きのえさる21)三月十五日(1824年4月14日)生誕-明治十六(1883)年八月一日薨去(五十九歳)は、江戸時代末期から明治初期にかけての尾張藩大名。尾張徳川家第十四代藩主。第十七代当主。明治維新後に議定。名古屋藩知事。

経歴

 文政七年甲申(きのえさる21)三月十五日(1824年4月14日)に徳川慶勝は江戸四谷の高須藩邸で美濃高須藩主の父・松平義建と徳川治紀の娘の母・規姫の次男として誕生する。弟に尾張徳川家第十五代藩主・徳川成徳(とくがわもちなが)、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)、桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)らがおり、慶勝を含めて高須四兄弟と呼称される。 

徳川成徳
松平容保
松平定敬

 嘉永二年四月七日(1849年4月29日)に養父の尾張徳川家第十三代藩主・徳川慶臧(とくがわよしつぐ)が逝去する。同年六月四日(同年7月23日)に慶勝は第十四代尾張藩主となる。

 安政五年六月十九日(1858年7月29日)に幕府は朝廷の勅許を得られぬまま日米修好通商条約に調印する。これを受けて、同年六月二十四(同年8月3日)に慶勝と徳川斉昭、慶篤父子、福井藩主・松平春嶽らと共に江戸城へ不時登城する。この行為が大老井伊直弼に咎められ、慶勝は隠居謹慎を命じられる。代わって弟の茂徳が十五代藩主となる。

徳川斉昭
松平春嶽

 万延元年三月三日(1860年3月24日)に大老・井伊直弼が水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士・有村次左衛門の計18名による襲撃を受け、暗殺される。慶勝は文久二年(1862年)に上洛して朝廷により将軍・徳川家茂の補佐を命じられる。従二位に昇叙し権大納言に転任する。

徳川家茂

 尊王攘夷派からの支持を背景に、慶勝は茂徳が隠居して実子の義宜が16代藩主に就任すると義宜の後見として藩政に復権する。佐幕派の茂徳も家中に影響力を保持したため、文久期以降、尾張家は慶勝と茂徳の二頭体制の様相を呈し対立、抗争を繰り広げることとなる。

 復権後の慶勝はたびたび上洛して京都政局に関与した。急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、京都守護職を務める会津藩主・松平容保や京都所司代の桑名藩主・松平定敬がこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、孝明天皇から内意を引き出し、文久三年八月十八日(1863年9月30日)に八月十八日の政変を起こす。

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変を起こす。長州藩は撃退され、朝敵となる。慶勝は長州征討軍総督に任じられ、薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)を大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取り、京へ凱旋した。

西郷吉之助(隆盛)

 慶応二年一月二十一日(1866年3月7日)に京都の小松帯刀邸で土佐藩脱浪人の坂本龍馬の仲介による藩薩摩藩と長州藩の同盟が締結された。この密約に基づいて薩摩藩は幕府による第二次長州征討に際し出兵を拒否することになる。

小松帯刀
坂本龍馬

 慶応二年十二月二十七日(1867年2月1日)に成徳が十五代将軍・徳川慶喜から一橋家当主を継承した。茂徳とその支持派は藩政から放逐され、家中対立に一応の決着が着く。

徳川慶喜

 慶応二年六月七日(1866年7月18日)に幕府艦隊・真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、第二次長州征討が始まる。同年七月二十日(同年8月29日)に十四代将軍徳川家茂が薨去(こうきょ)する。幕府は実質的な敗北のもと長州藩と和睦した。 慶応二年十二月二十五日(1867年1月30日)に家茂の後を追うように孝明天皇が崩御する。慶応三年一月九日(同年2月13日)に明治天皇が践祚し皇位継承する。

孝明天皇
明治天皇

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に徳川慶喜が明治天皇に政権返上を奏上し翌日、天皇が奏上を勅許する(大政奉還)。慶喜が国政の主導権を確保する策だった。

 慶勝は上洛して薩摩藩、長州藩、土佐藩らとともに王政復古政変に参加する。慶勝は政府の議定に任ぜられる。慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は廃止される。

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いが勃発する。この戦いで薩摩藩、長州藩が掲げた錦の御旗に動揺した幕府軍は大敗し、「朝敵」としての汚名を受ける事になる。慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した。

 慶応四年一月二十日(1868年2月13日)に慶勝は尾張へ戻り、岩倉具視らの意向により、佐幕派家臣の粛清を断行した(青松葉事件)。続いて朝命に従い、尾張藩は東海道、中山道沿道の大名や旗本領に新政府恭順の証拠として、「勤王証書」を提出させる活動を繰りひろげる。慶勝は、上記のような活動を行う一方で、茂徳と協力して容保、定敬の助命嘆願を行う。

 明治十一年(1878年)から始まった旧尾張藩士による北海道八雲町の開拓を指導する。明治十三年(1880年)に慶勝は家督を養子の義礼に譲り隠居した。明治十六(1883)年八月一日徳川慶勝は薨去。五十九年の生涯を終えた。

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