毛利敬親

毛利敬親

概要

 毛利敬親(もうりたかちか)文政二年己卯(つちのとう16)二月十日(1819年3月5日)生誕-明治四年三月二十八日(1871年5月17日)薨去(五十二歳)は、長州藩第十三代藩主(安芸毛利家に十五代当主)。

経歴

 文政二年己卯(つちのとう16)二月十日(1819年3月5日)に毛利敬親は長州藩十一代藩主の父・毛利斉元と側室の原田氏の母の長男として誕生する。

 天保七年六月十二日(1836年7月25日)に敬親が十八歳のときに萩城下の阿武川の分流橋本川岸の南苑邸にいた。そのときに俗に「申歳の大水」といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇する。南苑邸には川上から倒壊した家屋などが流れ込み、見分けがつかないほど荒廃したため、御客屋に避難した。

萩城跡

 洪水から3か月後の天保七年九月八日(1836年10月17日)に父・斉元が逝去する。その跡を継いで第十二代藩主となった毛利斉広も天保七年十二月二十九日(1837年2月4日)に二十二歳の若さで逝去した。その結果、天保八年四月二十七日(1837年5月31日)に敬親は家督を相続して十三代藩主となる。

 天保八年六月十八日(1837年7月20日)に従四位下に叙位する。侍従に任じ、大膳大夫と名乗る。十二代将軍徳川家慶の偏諱「慶」を賜り、諱を教明から慶親(よしちか)に改める。

徳川家慶

 慶親は質素倹約と貨幣流通の改正を行い、領内の実態調査を実施し天保十四年(1843年)に萩で練兵を行う。藩の軍事力の強化に努めた。嘉永に年(1849年)に国許の藩校である「明倫館」の改革を実行する。

明倫館

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にアメリカ東インド艦隊司令長官マーシュ・ペリーが浦賀に入港する。安政五年(1858年)年に坪井九右衛門を引退させ、周布 政之助(すふ まさのすけ)らを登用する。萩藩は「攘夷」の意見を幕府に提出した。慶親は藩の体制強化と洋式軍制を導入する改革を開始する。

マーシュ・ペリー
周布 政之助

 文久元年(1861年)に慶親は長井 雅楽(ながい うた)を登用する。長井が提唱した「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」により朝廷と幕府との協調策を模索した。しかし政局の主導権を長州藩に握られることを恐れた薩摩藩の妨害によって、長井の政略は失敗する。

長井 雅楽

 長井雅楽の政略の失敗により藩は周布 政之助や桂小五郎らが主導する攘夷へと大きく方針を転換する。文久三(1863)年四月に藩庁を海防上の理由から海沿いの萩城から山口城に移転した。

桂小五郎(木戸孝允)
山口城

 孝明天皇の強い要望により十四代将軍徳川家茂は、文久三年五月十日(1863年6月25日)に攘夷実行を約束する。その結果、長州藩は馬関海峡(現 、関門海峡)を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。

孝明天皇
徳川家茂

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に八月十八日の政変が起き、長州藩が朝廷から排除される。元治元年七月八日(1864年7月8日)に池田屋事件で多くの長州藩士を含む志士らが会津藩麾下の新選組によって殺害・捕縛される事件が起きる。

 池田屋事件から1カ月後の元治元年七月十九日(1864年8月20日)に京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主の京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵する(禁門の変)。禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われた。

松平容保

 海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定した。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、艦船17隻で連合艦隊を編成する。同艦隊は、元治元年八月五日から七日(1864年9月5日から7日)にかけて馬関(現、下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃する。各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した(下関戦争)。

 元治元年八月二十四日(1864年9月24日)に慶親は禁門の変により、朝敵とされ官職と位階を剥奪される。松平の名字と徳川家慶の偏諱である「慶」の字も幕府に召し上げられ、敬親(たかちか)と改名した。

 慶応元年(1865年)に松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太(むくなしとうた)ら俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行する。 

高杉晋作

 高杉らが結成した奇兵隊や民間の軍、長州藩諸隊を整備をして大村益次郎を登用し、西洋式軍制を採用してゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を配備し、戦術の転換など大規模な軍事改革を行う。

 慶応二年一月二十一日(1866年3月7日)に坂本龍馬の仲介で京都の薩摩藩家老小松帯刀(こまつたてわき)邸において薩長同盟が締結される。

坂本龍馬
小松 帯刀

 慶応二年六月七日(1866年7月18日)に幕府艦隊・真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃が開始され、第二次長州征討が開始される。幕府軍が劣勢の中で慶応二年七月二十日(1866年8月29日)に十四代将軍徳川家茂が大坂城で急死する。

 将軍後見職の徳川慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。事実上長州藩は徳川幕府に勝利する。

 慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に十四代将軍徳川家茂の薨去を受け徳川慶喜が十五代将軍に就任する。同年十二月二十五(同年1月30日)に孝明天皇が崩御された。慶応三年一月九日(1867年2月13日)に明治天皇が満十四歳で践祚(せんそ)され第百二十二代天皇として即位される。

明治天皇

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に朝廷から薩摩藩と長州藩に徳川慶喜討伐の詔書(しょうしょ)秘密裡に下された。慶喜は同日に「大政奉還上表」を朝廷に提出し、翌日の十五日(10日)に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定する。

 朝廷は慶喜に当分の間引き続き政治を委任し、諸大名に上京を命じる。形勢を観望するため上京を辞退する大名が相次ぎ、将軍職を巡る慶喜の進退に関し何ら主体的な意思決定ができぬまま事態は推移する。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府を廃止する。同時に摂政、関白等の廃止と三職の設置、至当の公議をつくすことが宣言され、新政府が成立した。毛利敬親は朝敵を許され、従四位上参議に復帰した。

 明治二年六月十七日(1869年7月25日)に版籍奉還が勅令(ちょくれい)された。明治四年三月二十八日(1871年5月17日)に毛利敬親は山口藩庁内殿で薨去。五十二年の生涯を終えた。

伝記・評伝

近世大名家における「家」と「御家」: 萩毛利家と一門家臣


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