鍋島直正(斉正)

鍋島直正

概要

 鍋島直正(なべしまなおまさ)文化十一年乙亥(きのとい12)十二月七日(1815年1月16日)生誕-明治四年一月八日(1871年3月8日)逝去(五十六歳)は、江戸時代末期の大名。肥前国佐賀藩10代藩主。明治維新以前の諱(いみな)は斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。

経歴

 文化十一年乙亥(きのといは12)十二月七日(1815年1月16日)に鍋島直正は肥前国佐賀藩九代藩主の父・鍋島斉直(なべしまなりなお)と因幡鳥取藩六代藩主の池田治道(いけだはるみち)の次女の母・幸の十七男として誕生する。

 文政十年十二月二十二日(1828年2月7日)に十一代将軍・徳川家斉の名一字を賜り、斉正(なりまさ)と諱を定め、従四位下信濃守に叙任する。天保元年二月七日(1830年3月1日)に父の隠居の後家督を相続して第十代藩主に就任する。

11代将軍徳川家斉

 斉正が藩主に就任した当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、先代藩主斉直の奢侈やシーボルト台風の甚大な被害もあり、藩の財政は破綻状況にあった。

フェートン号

 斉正は家督を相続した後、藩政改革を開始する。江戸にいた前藩主・斉直とその側近らの保守勢力の意向にお伺いを立てねばならなかった。実行できた改革は倹約令の発令のみだった。天保六年(1835年)に御殿のあった佐賀城二の丸が大火で全焼した。佐賀城本丸に御殿を移転して新築する佐賀城再建を斉直の反対を押し切って実行した。

佐賀城本丸

 斉正は歳出を減らして借金の8割の放棄と残額の2割を50年割賦にすることを実行した。磁器、茶、石炭などの産業育成と交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。藩校・弘道館で優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革を実施する。小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革して出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。

藩校弘道館跡

 長崎警備の強化を掲げたが、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置して反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。高島秋帆(たかしましゅうはん)の西洋砲術に多大な関心を寄せた。後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功する。

佐賀藩反射炉跡

 当時不治の病であった天然痘を根絶するために、当時佐賀藩医であった伊東玄朴が藩に痘苗の入手を進言する。その結果、痘苗の入手に成功した。

 嘉衛六年六月三日(1853年7月8日)に浦賀沖でマーシュ・ペリーが率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻が来航した。江戸幕府老中・阿部正弘が各大名に意見を募った。斉正はアメリカの武力外交に対して強く攘夷論を唱えた。一方、イギリスの親善外交に対しては開国論を唱える。

マーシュ・ペリー

 文久元年十一月二十日(1861年12月21日)に隠居して閑叟を号する。1868年4月6日(慶応4年3月14日)に諱を直正と改める。

 明治二年六月六日(1869年7月14日)に蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士・島義勇(しまよしたけ)らを開拓御用掛に登用した。直正は開拓長官に就任しが蝦夷地へ赴任することなく、明治二年八月十六日(1896年9月21日)に大納言に転任する。

島 義勇

 明治四年一月八日(1871年3月8日)に逝去。鍋島直正は五十六年の生涯を終えた。

伝記・評伝

鍋島直正 (佐賀偉人伝)

青年藩主 鍋島直正: 天保期の佐賀藩 (佐賀学ブックレット)


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