松平忠固(忠優)

松平忠固

概要

 松平忠固(まつだいらただかた)文化九年壬申(みずのえさる9)七月十一日(1812年8月17日)生誕-安政六年九月十四日(1859年10月9日)逝去(四十七歳)は、江戸時代末の譜代大名、老中。信濃国上田藩六代藩主。伊賀守系藤井松平家八代当主。最初の老中就任時は松平忠優(まつだいら ただます)という名前で2度目の老中就任時に松平忠固と改名した。

経歴

 文化九年壬申(みずのえさる9)七月十一日(1812年8月17日)に松平忠固は播磨国姫路藩主・酒井雅楽頭忠実(さかいうたのかみただみつ)の次男として江戸藩邸で誕生する。文政十二年(1829年)に老中歴任者の多い上田藩の藩主・松平忠学(まつだいらたださと)の婿養子となり、天保元年(1830年)に忠学の隠居に伴い、十九歳で上田藩主となる。

上田城

 少年時代から忠優は賢く俊敏で、徳川譜代の酒井家の出であることから、天保五年(1834年)に二十三歳で江戸城の奏者番(将軍と大名の取次ぎなどの役)に就任する。天保九年(1838年)に二十七歳で寺社奉行となる。弘化二年(1845年)に三十四歳で大阪城代となる。

大阪城

 嘉永元年五月(1848年6月)に忠優は三十七歳で老中に就き海防掛かいぼうかかりとなる。このころ、日本の沿岸近くに、イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなどの船がしきりに現れるようになり、国内が騒然となっていた。嘉永六年(1853年)にアメリカのペリーが国交を開くよう強く求めてきた。

ペリー

 ペリーからの開国要求に際し、老中首座・阿部正弘は諸大名や朝廷からも意見を求めた。前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に任じた。しかし忠優は「外交問題も含め朝廷から諸事一任されている幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは、幕府の当事者能力の喪失を内外に印象付けるだけで愚策である」という意見で阿部正弘の見解に反対した。狷介な性格の斉昭では幕政に波風を立てるだけだとして警戒して斉昭の海防参与就任にも反対した。

阿部正弘
徳川斉昭

 攘夷論を唱える徳川斉昭の主張は一見威勢はいいが、当時の幕府がアメリカと戦争しても勝利できる見込みはないと忠優は考えていた。アメリカから国書を受け取り、早めに開国すべきであるというのが幕府内での穏便、開国派の考えだった。

 海防水戸学の思想に執着する斉昭と、積極開国派の忠優では見解の一致はなかった。両者の対立は激しさを増し、安政二年六月三十日(1855年8月12日)に忠優と松平乗全(まつだいらのりやす)は老中免職を要求する斉昭に対し、やむなく屈した正弘によって両者共に老中職を解任に追い込まれた。

松平乗全

 両者罷免後に阿部正弘は安政二年十月(1855年11月)に開国派の堀田正睦(ほったまさよし)を老中に迎えた。阿部は形式的に首座の地位を堀田に譲った。安政四年六月(1857年7月)に在任のまま正弘が死去する。後事を託された堀田正睦は日米間の条約交渉を共に推進する同志として、開国派の忠優を復帰させる決断をした。忠優は忠固と改名する。勝手掛も兼ねる次席格の老中として再び敏腕を揮う機会を得た。

堀田正睦

 再任後の忠固は日米修好通商条約締結は勅許不要論を唱え、一刻も早い締結を主張した。尾張藩主・徳川義勝が次期将軍に一橋慶喜を推して雄藩連合でこの難局に対処すべしと主張したのに対して、忠固は紀州藩主・徳川慶福を将軍に推した。忠固は従前どおり譜代大名中心で幕政を進めるべきと考えていた。

徳川義勝
一橋慶喜(徳川慶喜)
徳川慶福(家茂)

 安政五年六月十九日(1858年7月29日)に日米修好通商条約締結の調印が行われた。大老井伊直弼は「勅許を得ず条約を締結し、かつ朝廷に対して条約締結を事後報告で済ませたのは不遜の極み」として、条約締結から四日後の六月二十三日(8月2日)に忠固と堀田正睦は共に老中を免職、蟄居を命じられた。

井伊直弼

 安政六年九月十四日(1859年10月9日)に松平忠固は急死する。暗殺とも言われている。松平忠固は四十七年の生涯を終えた。 

伝記・評伝

日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中


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