芳野金陵

芳野金陵

概要

 芳野金陵(よしのきんりょう)享和二年癸亥(みずのとゐ60)十二月二十日(1803年1月13日)生誕 -明治十一(1878)年八月五日逝去(七十五歳)は、江戸時代後期の儒者。名は成育。字は叔果。通称、愿三郎(げんざぶろう)、のち立蔵。金陵のほか匏宇(ほおう)と号する。

経歴

 享和二年癸亥(みずのとゐ60)十二月二十日(1803年1月13日)に芳野金陵は下総国葛飾郡松ケ崎村(現、千葉県柏市)の儒医の芳野南山の次男として、小浮気村(現、千葉県成田市)にある母の実家で誕生する。父を師として論語や史記、漢籍等の学問を修める。

 文政六年(1823年)に父の許しを得て江戸に遊学する。当時の高名な儒学者の亀田鵬斎(かめだほうさい)へ入門を希望したが、鵬斎が高齢のため、その子の綾瀬(りょうらい)に入門する。亀田綾瀬は下総国関宿藩の儒官を勤めていた。

 文政九年(1826年)に浅草福井町(現、東京都台東区浅草橋1・2丁目)に私塾「逢原堂」を開塾する。その門人帳「執贄録」「登門録」に記載された入門者は、1400人に上った。

 弘化四年八月(1847年9月)に駿河田中藩の儒員に就任する。嘉永六年(1853年)にアメリカのペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航すると、日本中は大混乱に陥った。文久二年(1862年)に福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が幕府の政事総裁につくと、金陵は政策や人材の推挙等で意見を述べるようになり、その見識が評価された。生麦事件による薩摩藩とイギリス艦隊の交戦など、朝廷や尊王攘夷派の動きが急を告げていた時期だった。金陵は幕府の公式学問所である昌平坂学問所の儒官として招かれる。

ペリー提督
ペリー艦隊
松平春嶽
昌平学校(旧、昌平坂学問所)

 金陵は「欧米列強のうちアメリカは南北戦争の渦中にある。ロシアもクリミア戦争の痛手が残っており、オランダもこれまでの関係から日本には手を出さないであろう。従って我が国が真剣に対策を立てるべきはイギリスとフランスである。」という意見を述べた。藤田東湖(ふじたとうこ)や藤森弘庵(ふじのもりこうあん)、安井息軒、塩屋宕陰といった当代一流の学者たちとも親しく付き合い、海防論議を重ねた。

藤田東湖
安井息軒

 明治元年十二月(1869年1月)より昌平学校(旧、昌平坂学問所)教授に就任する。明治三年(1870年)に昌平学校が廃校後は引退し、大塚に隠居して余生を送り、精力的に四書五経等の著述をした。明治十一(1878)年八月五日に芳野金陵は七十五年の生涯を終えた。

著作

金陵文抄 : 譚故書餘(キンリョウ ブンショウ : タンコ ショヨ)1881(明治14)年3月出版 

金陵遺稿( キンリョウ イコウ1,2) 1888(明治21)7月年出版

出典 国立国会図書館デジタルコレクション


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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