安井息軒

安井息軒

概要

 安井息軒(やすいそっけん)寛政十一年己未(つちのとひつじ56)一月一日(1799年2月5日)生誕 – 明治九(1876)年九月二十三日逝去(七十七歳)は江戸時代の儒学者。名は衡、字は仲平、息軒は号。

経歴

 寛政十一年己未(つちのとひつじ56)一月一日(1799年2月5日)に安井息軒は飫肥藩士(おびはんし)安井滄洲の次男として、清武郷中野(現、宮崎市)に誕生する。幼少の頃天然痘に罹り、顔面の疱瘡痕で片目が潰れた容貌となる。息軒は学者の父の影響を受けて学問を志し、文化七年(1810年)に江戸昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)で学ぶ。

安井息軒旧宅
宮崎県宮崎市清武町加納甲3378-1
昌平坂学問所
東京都文京区湯島1-4-25 

 文政十年(1827年)に息軒は飫肥藩主伊東祐相(いとうすけとも)に呼ばれ清武郷に帰り侍読となり、川添佐代と結婚した。郷校「明教堂」と藩校「振徳堂」で助読に任ぜられた。息軒は藩政に参与するようになる。

伊東 祐相

 藩主が息軒を重用して進める藩政改革に反対する保守派の排除により、天保八年(1837年)に息軒が四十歳の時に江戸に出る。芝増上寺の僧寮に入り、ここで礼楽(らいがく)、兵制、刑法について深く学ぶ。天保九年(1838年)に家族を江戸に呼び移住した。息軒は私塾「三計塾」を開く。「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」は三計塾の設立主旨となる。文久二年(1862年)に幕府に招かれて塩谷宕陰、芳野金陵とともに昌平坂学問所の儒官となる。

増上寺
東京都芝公園4丁目7-35
塩谷宕陰
芳野金陵

 明治元年(1868年)に息軒は明治維新により身分は飫肥藩籍に戻る。飫肥藩江戸屋敷で塾生の教育に尽力したが、明治五年(1872年)の学制発布により塾生は激減した。息軒門下からは谷 干城や陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。明治九(1876)年九月二十三日に安井息軒は七十七年の生涯を終えた。

谷 干城
陸奥宗光

伝記・評伝

瓦全―息軒小伝 (みやざき文庫 37) (みやざき文庫 (37))

青春の息吹 安井息軒『志濃武草』読解と紀行 (みやざき文庫)

日本の思想家30 松崎慊堂・安井息軒 (叢書・日本の思想家 儒学編)


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