中山忠能

中山忠能

概要

 中山忠能(なかやまただやす)文化六年己巳(つちのとみ6)十一月十一日(1809年12月17日)生誕-明治二十一(1888)年六月十二日薨去(七十八歳)は、江戸時代末期から明治時代前期にかけての公家、政治家。明治政府の議定。明治天皇の母方祖父。

経歴

 文化六年己巳(つちのとみ6)十一月十一日(1809年12月17日)に中山忠能は父・中山忠頼と母・正親町三条綱子の子として誕生する。文化七年一月十日(1810年2月13日)に従五位下に叙位される。文化十三年三月七日(1816年4月4日)に元服して昇殿を許された。天保十一年三月二十七日(1840年4月29日)に参議に補任される。

 弘化四年十二月二十七日(1848年2月1日)に大納言となる。嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航して通商を求めた。忠能は攘夷論を主張して条約締結を巡り関白の九条尚忠を批判する。安政五年一月八日(1858年2月21日)に江戸幕府老中の堀田正睦(ほった さよし)が幕府使者となり上洛する。条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)らと共にこれに反対した。

マシュー・ペリー
ペリー艦隊
堀田 正睦
正親町三条 実愛

 万延元(1860)年に公武合体派の公家として孝明天皇から和宮と十四代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられる。文久元年十月二十日(1861年11月22日)に和宮の江戸行きに随行した。この件で、一部の過激な尊王攘夷派の憤激を生じて文久三年(1863年)に忠能は議奏を辞職し失脚した。子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて天誅組の変を首謀したが、長州で暗殺される。

孝明天皇
和宮
徳川家茂

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変が起こる。忠能は長州藩の動きを支持した。禁門の変は結果的に失敗して忠能は孝明天皇の怒りを買い処罰される。

 慶応二年十二月二十五日(1867年1月30日)に孝明天皇が崩御する。その後、忠能は復帰を許された。慶応三(1867)年に中御門経之(なかのみかどつねゆき)や正親町三条実愛らと組み、十五代将軍徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることに尽力した。その後、岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させた。

中御門 経之
15代将軍 徳川慶喜
明治天皇

 忠能は曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当する。明治二十一(1888)年6月12日に中山忠能は七十八年の生涯を終えた。

大正天皇

著作・関係書籍

中山忠能日記〈1〉 (1973年) (日本史籍協会叢書)

中山忠能履歴資料〈1〉 (1973年) (日本史籍協会叢書)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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