江川英龍

江川英龍

概要

 江川英龍(えがわひでたつ)享和元年辛酉(かのととり58)五月十三日(1801年6月23日)生誕-安政二年一月十六日(1855年3月4日)逝去(五十三歳)は、江戸時代後期の幕臣。伊豆韮山代官。通称、太郎左衛門(たろうざえもん)。号は坦庵(たんあん)。

経歴

 享和元年辛酉(かのととり58)五月十三日(1801年6月23日)に江川英毅の次男として韮山で誕生する。江川家は伊豆韮山代官として天領の民政に従事する。英龍が代官職を継いだのは天保六年(1835年)の時だった。父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られていた。英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行う。嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進する。領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。

韮山
二宮尊徳

 寛政十二年(1800年)以降、日本近海に外国船がしばしば現れた。幕府は異国船打払令を制定、日本近海から異国船を駆逐する方針を採っていた。天保八年(1837年)にモリソン号事件が起こる。幕府は方針に従ってモリソン号に砲撃を行う。英龍は代官として管轄区域に海防上重要な地域が含まれており、海防問題に危機感を持った。

モリソン号

 こうした時期に英龍は川路聖謨と羽倉簡堂の紹介で渡辺崋山と高野長英に出会う。英龍は彼らに積極的に洋学知識を学ぶ。田原藩に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。しかし、幕府内の蘭学を嫌う目付、鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とした。

渡辺崋山
高野長英
高島秋帆

 英龍は長崎へと赴いて高島秋帆に弟子入りし、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。英龍は水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められる。以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、「江川塾」を江戸に開き、全国の藩士にこれを教育した。佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(木戸孝允)などが英龍の門下で学んだ。

水野忠邦
佐久間象山
大鳥圭介
橋本左内
桂小五郎(木戸孝允)

 天保十四年(1843年)に水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘に評価され、嘉永六年(1853年)にペリー来航直後に勘定吟味役格に登用される。品川台場(お台場)を築造した。銃砲製作のため湯島大小砲鋳立て場を設立した。鉄鋼を得るため反射炉の建造に取り組む(韮山反射炉)。

阿部正弘
品川台場跡

 英龍は造船技術の向上にも力を注ぎ、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図したが、激務に体調を崩し、安政二年一月十六日(1855年3月4日)に本所南割下水(現、東京と墨田区亀沢1丁目)の江戸屋敷で逝去した。江川英龍は五十三年の生涯を終えた。

伝記・評伝

英龍伝

勝海舟が絶賛し、福沢諭吉も憧れた 幕末の知られざる巨人 江川英龍 (角川SSC新書)

評伝江川太郎左衛門―幕末・海防に奔走した韮山代官の軌跡

江川太郎佐衛門の生涯―日本の国防に一生を捧げた韮山代官

しずおかの文化新書17 幕末の産業革命 韮山反射炉〜伊豆韮山代官 江川太郎左衛門の挑戦〜 (しずおかの文化新書 17 地域をめぐる知の冒険)

幕臣たちと技術立国 ―江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢 (集英社新書)

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