大塩平八郎

大塩平八郎

概要

大塩平八郎(おおしお へいはちろう)は、寛政五年癸丑(みずのとうし50)一月二十二日(1793年3月4日)生誕-天保八年丁酉(ひのととり34)三月二十七日(1837年5月1日)逝去(四十四歳)は、江戸時代後期の儒学者、陽明学者、大坂町奉行組与力。大塩 平八郎の乱を起こす。

経歴

 寛政五年癸丑(みずのとうし50)一月二十二日(1793年3月4日)に大坂天満(現、大阪府大阪市天満1丁目から4丁目)で誕生する。大塩家は代々、大坂東町奉行組与力を務めていた。平八郎の奉行所時代は、組違いの同僚である西町奉行与力、弓削新左衛門の汚職を内部告発するなど、不正を次々と暴く。奉行所内では大塩に反発する者もいたが、上司の東町奉行、高井実徳が大塩を支援した。弓削新左エ門の件、切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自らが三大功績とした。

 文政十三年(1830年)に平八郎は与力を辞職した。養子の大塩格之助に跡目を譲る。陽明学を独学で学び、「知行合一」「致良知」、「万物一体の仁」を信じて隠居後は学業に専念した。与力在任時に自宅に開いていた私塾、洗心洞で子弟を指導した。江戸の陽明学者、佐藤一斎とは面会したことはなかったが、頻繁に書簡を交わした。

洗心洞 跡
大阪市北区天満一丁目25 造幣局官舎内
大阪シティバス「東天満」下車 東約150m
佐藤一斎

 全国的に天保四年(1833年)秋から天保五年(1834年)夏にかけて、天保七年(1836年)秋から天保八年(1837年)夏にかけて、天保の大飢饉が起こる。大坂東町奉行の跡部良弼は幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ強制的に廻米した。さらに豪商が米を買い占めた為、米価が高騰した。平八郎は、跡部に対して、蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせるなど、米価安定の為のさまざまな献策を行った。

 天保七(1836)年八月に米価高などの影響で甲斐国で発生した「天保騒動」や「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生した。奥羽地方で10万人の死者が出る中、平八郎は九月に「打ちこわし」の鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始した。

 跡部良弼に対する献策が却下された後、天保八(1837)年二月に平八郎は私財を処分して救済活動を行った。武装蜂起によって奉行を討ち、豪商を焼き討ちする以外に根本的解決は望めないと考え、天保八年二月十九日(1837年3月25日)に門人や民衆と共に蜂起して「大塩平八郎の乱」を起こした。しかし、同心の門人数人の密告によって乱の当日に鎮圧された。

 大塩平八郎は逃亡後大坂に戻ったが、密告により幕府方に発覚して役人に囲まれ、天保八年三月二十七日(1837年5月1日)に養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決した。陽明学者として、「知行合一」の四十四年の生涯だった。

伝記

大塩平八郎

洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート〈上〉 (タチバナ教養文庫)

杖下に死す (文春文庫)


三国志演義 第一巻
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