渡辺崋山

渡辺崋山

概要

 渡辺崋山(わたなべ かざん)寛政五年癸丑(みずのとうし50)九月十六日(1793年10月20日)生誕 – 天保十二年辛丑(かのとうし38)十月十一日(1841年11月23日)逝去(四十八歳)は、江戸時代後期の田原藩藩士、画家。通称は登(のぼり、一部の絵には「のぼる」と揮毫)する。号は、はじめ華山で、三十五歳ころに崋山と改める。号は他にも全楽堂、寓画堂など。

経歴

 渡辺崋山は寛政五年癸丑(みずのとうし50)九月十六日(1793年10月20日)に、江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸麹町(現、東京と千代田区三宅坂付近)の田原藩邸で誕生する。渡辺家は田原藩で上士の家格を持っていた。父、定通が養子であることや、藩の財政難の為、崋山が幼少の頃は極端な貧窮の中に育つ。少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになる。田原藩士の鷹見 星皐(たかみ せいこう)から朱子学を学ぶ。その後、十八歳のときに昌平坂学問所に通い佐藤一斎から儒学を学ぶ。

佐藤一斎
 渡辺崋山 
1821(文政4)年作

 十六歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕する。納戸役、使番など、藩主にごく近い役目だった。文政六年(1823年)に田原藩士和田氏の娘、たかと結婚する。文政八年(1825年)に父が逝去した為、三十二歳で家督を相続し、80石の家禄を継ぐ。文政十年(1827年)に藩主康明が二十八歳で病死する。次の藩主擁立の問題で、崋山は康明の弟の友信に跡を継がせようとしたが、結局藩上層部の意思が通って姫路藩からの持参金付きの養子、三宅康直が十四代藩主となる。

三宅康直

 天保三(1832)年五月に崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。家老職として藩政改革に尽力した。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図る。天保七年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉では、あらかじめ食料備蓄庫を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受ける。

 紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会(しょうしかい)に参加し、蘭学者の高野長英などと飢饉の対策について話し合う。飢饉対策を提案した『救荒二物考』を長英が上梓。崋山がその挿絵を担当する。水戸藩の水戸学藤田派の学者、藤田東湖は、崋山を、「蘭学にて大施主」と呼称した。崋山自身は田原藩藩士であり、蘭学者ではなかったが、時の蘭学者たちの指導者的存在であるとみなしての呼び名だった。

高野長英
藤田東湖

 天保十(1839)年五月に幕府の保守派、目付鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)は江川英龍とその仲間を罪に落とそうとした(蛮社の獄(ばんしゃのごく)。江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政に口出したという理由で、田原で蟄居することになる。天保十二年十月十一日(1841年11月23日)に崋山は藩に迷惑が及ぶことを恐れ、「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹する。四十八年の生涯だった。

渡辺崋山集 (第7巻)

日本の名著〈25〉渡辺崋山・高野長英(1972年)

崋山全集 (1) (国立図書館コレクション)


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