山田方谷

山田方谷

概要

 山田方谷(やまだほうこく)文化二年乙丑(きのとうし2)二月二十一日(1805年3月21日)生誕 – 明治十(1877)年六月二十六日逝去(七十二歳)は、江戸時代末期の儒家、陽明学者。名は球、通称、安五郎。号は方谷。備中聖人と称される。

経歴

 文化二年乙丑(きのとうし2)二月二十一日(1805年3月21日)に山田方谷は備中松山藩領西方村(現、岡山県高梁市中井町西方)で菜種油の製造、販売を家業とする農商の父・五朗吉の子として誕生する。五歳のとき新見藩の儒学者の丸川松隠に学ぶ。二十歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命される。

岡山県高梁市

 方谷は二十九歳のとき、京都遊学で陽明学と出会う。王陽明の「伝習録」から朱子学と陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解した。

王陽明

 松山藩の藩政に参加した方谷は、藩主の板倉勝静が「方谷の言う事は私の言葉」という信頼関係の下に「理財論」と「擬対策」の実践で、財政の建て直しに貢献し、藩政改革を成功させた。幕末の混乱期に朝敵とされた松山藩を、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城を官軍に開城することを条件に松山藩を滅亡から回避させることに成功した。

板倉勝静

 明治維新後、方谷は岡山の人々の依頼で寛文十年(1670年)に岡山藩主池田光政が設立して明治三年(1870年)まで続いた日本最古の庶民学校である閑谷学校(しずたにがっこう)を、陽明学を教える閑谷精舎として明治七年(1874年)に再興した。

岡山藩主池田光政
閑谷学校

 明治新政府は方谷の財政改革を高く評価して出仕を求めた。しかし官軍に降服し主君の板倉勝静を隠居に追い込んだ方谷に再仕官をする考えはなかった。陽明学者の安岡正篤は幕末の三傑として、藤田東湖、山田方谷、佐久間象山を挙げている。

安岡正篤
藤田東湖
佐久間象山

  明治十(1877)年六月二十六日に弟子の育成に生涯を捧げることになった山田方谷は逝去。七十二年の生涯を終えた。方谷の「理財論」と「擬対策」は後に、弟子の三島中洲(二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者)の「義利合一論」へと発展し、渋沢栄一らを通して日本の財界に深い影響を与えることなった。

三島中洲
渋沢栄一

伝記・評伝

山田方谷―河井継之助が学んだ藩政改革の師 (人物文庫)

炎の陽明学

夢を駆けぬけた飛龍 山田方谷

運命をひらく山田方谷の言葉50 (活学新書)

入門 山田方谷

山田方谷のことば (サムライスピリット)

『師門問弁録』を読む

山田方谷の再建策は、日本経済を救えるか (Imagination Creative)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
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