徳川斉昭

徳川斉昭

概要

徳川斉昭(とくがわなりあき)寛政十二年庚申(かのえさる57)三月十一日(1800年4月4日)生誕-万延元年庚申(かのえさる57)八月十五日(1860年9月26日)薨去(六十歳)は、江戸時代後期の親藩藩主。常陸水戸藩第9代藩主。江戸幕府第十五代将軍、徳川慶喜の実父。諡号は烈公。

経歴

 寛政十二年庚申(かのえさる57)三月十一日(1800年4月4日)に水戸藩七代藩主、徳川治紀の三男として水戸藩江戸小石川藩邸で誕生する。儒学を中心に、国学、史学、神道を学ぶ。八代藩主、徳川斉脩は 継嗣を決めないまま、文政十二年十月四日(1829年10月31日)に薨去した。家督を巡り水戸藩内で騒動があったが、斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり斉昭が家督を継ぎ、第九代藩主とる。天保二年(1832年)に有栖川宮織仁親王王女、吉子女王と結婚する。藩校、弘道館を設立する。門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努める。戸田忠太夫、藤田東湖、武田耕雲斎ら、斉昭擁立に加わった藩士を用いて藩政改革を実施した。

吉子女王
戸田中太夫
藤田東湖
武田耕雲斎

 天保八(1837)年七月に斉昭は、1.「経界の義」(全領検地)2.「土着の義」(藩士の土着)3.学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)4.「総交代の義」(江戸定府制の廃止)を掲げた。「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練の実施や農村救済に稗倉の設置をするなどをする。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進する。宗教の面では、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とした。そして廃寺や道端の地蔵の撤去を行う。村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた民衆管理の制度を神官の管理へと移行する。このような仏教抑圧と神道重視の政策は藩政を牛耳る家老たちと、藩政改革を進めようとする中級・下級の藩士たちの間で激しい派閥抗争が繰り広げられた。

 弘化元年(1844年)に鉄砲斉射の事件、仏教弾圧事件などの罪に問われて、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられる。水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握る。その後、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって弘化三年(1846年)に謹慎を解除される。嘉永二年(1849年)に藩政関与が許される。

 嘉永六(1853)年六月にマシュー・ペリーの浦賀来航に際して、老中首座の阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わる。幕政では、攘夷論を主張する。江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」を建造し幕府に献上する。

マシュー・ペリー
阿部正弘
旭日丸

安政二年(1855年)に軍制改革参与に就任する。安政二年十月二日(1855年11月11日)の安政江戸地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが逝去した。安政四年(1857年)に阿部正弘が薨去した。阿部正弘の薨去により、堀田 正睦が老中首座となる。開国反対の斉昭は、開国を推進する井伊直弼らと対立した。第十三代将軍、徳川家定の将軍継嗣問題で、紀州藩の徳川慶福(家茂)擁す井伊直弼らに対して、実子である一橋慶喜を擁して直弼と争う。しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政五年四月二十三日(1858年)に直弼が大老に就任する。直弼は日米修好通商条約に調印する。徳川慶福(家茂)が第十四代将軍に就任する。

堀田 正睦
井伊直弼
徳川家茂

 安政五(1858)年六月に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主、松平慶永(春嶽)と尾張藩主、徳川慶恕(慶勝)、一橋慶喜(徳川慶喜)らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、直弼から七月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除される。

松平慶永
徳川慶勝
徳川慶喜

 安政五年八月八日(1858年9月14日)に孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下される。これを井伊直弼が激怒して、安政六年(1859年)に斉昭は水戸での永蟄居を命じられることになる。事実上は政治生命を絶たれる形となる。この一連の直弼反対派に与えた処罰は、安政の大獄と言われている。万延元年八月十五日(1860年)に蟄居処分が解けぬまま水戸で急逝する。徳川斉昭は六十年の生涯を終えた。

伝記

徳川斉昭: 不確実な時代に生きて

徳富蘇峰・深作安文 入門 徳川光圀・斉昭と水戸学の思想: 『大日本史』から尊王攘夷思想、戦前国体論へ


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