勝海舟

勝海舟

概要

 勝海舟(かつかいしゅう)文政六年癸未(みずのとひつじ20)一月三十日(1823年3月12日)生誕-明治三十二(1899)年己亥(つちのとゐ36)一月十九日薨去(七十五歳)は、江戸時代末期の幕臣。明治時代初期の政治家。伯爵。初代海軍卿。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に幕末の三舟と呼称される。幼名、麟太郎。維新後改名、安芳。海舟は号。

経歴

 文政六年癸未(みずのとひつじ20)一月三十日(1823年3月12日)に勝海舟は江戸本所亀沢町(現、東京都墨田区両国)で父・勝小吉の子として誕生する。海舟の曾祖父・銀一は越後の国(現、新潟県)生まれの盲人で江戸に出て成功し、盲官の最高位「検校」を買う。三男の平蔵に男谷(おだに)家の株を買い、徳川幕府の旗本となる。平蔵の三男・小吉は勝家の婿養子で、勝家は開幕以来の御家人だった。享保十年(1725年)に幕臣となる。嘉永五年(1853年)に父・小吉が隠居して海舟は家督を相続した。

 剣術は勝の実父の小吉の実家で従兄の男谷信友の道場で習い、直心影流剣術(じきしんかげりゅうけんじゅつ)の免許皆伝となる。兵学は山鹿流を習得している。赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし蘭学を学ぶ。

 蘭学修行中に蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ(Doeff-Halma Dictionary, 通布字典、道訳法児馬』を1年かけて2部筆写する。1部は自分のために、1部は売却した。蘭学者の佐久間象山の知遇を得て、象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開く。

佐久間象山

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にマシュー・カルブレイス・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻軍艦が浦賀沖に現れ停泊した。

マシュー・カルブレイス・ペリー

 老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。海舟は海防意見書を提出し、意見書は阿部の目に留まることとなる。目付兼海防掛の大久保忠寛(一翁)の知遇を得て安政二年一月十八日(1855年3月6日)に海舟は「異国応接掛附蘭書翻訳御用」に任じられて念願の役入りを果たした。

阿部正弘
大久保忠寛

 安政二年十月二十日(1855年11月29日)に海舟は船で長崎へ来航し、長崎海軍伝習所に入門する。以後三年半に渡り勉強に取り組むことになる。

 安政五年四月二十三日(1858年6月4日)に溜詰筆頭の井伊直弼が大老職を拝命される。安政五年六月十九日(1858年7月29日)に日米修好通商条約が朝廷の勅許を得られぬまま条約調印された。安政五年七月六日(1858年8月14日)に十三代将軍。徳川家定が薨去する。

 孝明天皇は安政五年八月八日(1858年9月14日)に水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜された(戊午の密勅)。直弼は老中間部詮勝に命じて密勅に関与した人物の摘発や証言の収集を進める中で、武力による倒幕など反体制的な行為の計画が露見した。

 安政五年十月二十五日(1858年11月30日)に徳川慶福が諱を家茂と改め、十四代将軍に就任する。直弼は家茂の将軍就任に反対する一橋派や戊午の密勅に関わった志士や公家を弾圧した(安政の大獄)。

徳川家茂

 安政六年一月十五日(1859年2月12日)に海舟は朝陽丸に乗って長崎から帰府する。幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになる。

 幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣すことを決定する。アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米を計画した。この時、咸臨丸を護衛と言う名目で出すことに決定した。

 安政七年一月十三日(1860年2月4日)に品川から咸臨丸が出航する。同年二月二十六日(同年3月18日)にサンフランシスコ入港する。37日間滞在して同年閏三月十九日(同年5月8日)にサンフランシスコを出港し、品川への帰着は同年五月六6日(同年6月27日)だった。

 海舟はアメリカ滞在中に政治、経済、文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けた。軍艦奉行の木村芥舟(きむらかいしゅう)の従者として福沢諭吉や通訳としてジョン万次郎も乗り組む。

木村 芥舟
福沢諭吉
ジョン万次郎

 文久元年九月五日(1861年10月8日)に講武所砲術師範となり天守番之頭格に格上げされる。文久二年七月五日(1862年7月31日)に軍艦操練所頭取として海軍に復帰し、同年閏八月十七日(同年10月10日)に軍艦奉行並に就任する。

 文久二年七月六日(1862年8月1日)に一橋慶喜が勅命を受け将軍後見職に就任する。同年七月九日(同年8月4日)に松平春嶽が新設の政治総裁職に就任する。

一橋慶喜

 海舟は大久保一翁や松平春嶽とその顧問・横井小楠を提携相手として手を組み、彼らが主張する「公儀政体論」(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う)の支持者となりその実現に向け動き出す。

松平春嶽

 文久三年三月四日(1863年4月21日)に徳川家茂が朝廷の攘夷実施の求めに応じて上洛する。同年四月二十三日(同年6月9日)に海舟は京都から大坂へ下った家茂を出迎え、順動丸に乗せて神戸まで航行した。神戸港は天然の良港だから、日本と欧米との貿易拠の港にするべきと家茂に提案した。家茂はこの提案を受け入れた。家茂と海舟は生田川河口に上陸する。家茂から直々に、この場所に海軍操練局開設の許可を得た。

 文久二年八月二十一日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹群生麦村(現、神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で薩摩藩主の島津茂久の父・島津久光の行列に騎馬のイギリス人が乱入して薩摩藩士がイギリス人を殺傷した(生麦事件)。

 文久三年七月二日(1863年8月15日)に生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、国権のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを排除し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した(薩英戦争)。同年十月五日(同年11月15日)に薩摩はイギリスと和睦する。イギリスの通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く。薩摩も欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解してイギリスとの友好関係を深める。 

アーネスト・サトウ

 元治元年十一月十日(1864年12月8日)に海舟は、諸侯と幕府の提携の権力強化を進める「公議政体論者」であるためと「神戸塾」で脱藩浪人を抱えていたことなどが理由とされ、軍艦奉行を罷免される。約2年の蟄居生活を送る。

 慶応二年五月二十八日(1866年7月10日)に海舟は罷免を解かれ軍艦奉行に復帰する。金の馬印を掲げ、大軍を率いて上洛した第二次長州征討の途上、徳川家茂は大坂城で病に倒れた。慶応二年七月二十日(1866年8月29日)に二十歳の若さで薨去する。

 第二次長州征討は幕府軍が不利の中で家茂の死を公にした上で、朝廷に休戦の勅命を得るのに成功した。徳川慶喜の意を受けた海舟と長州の広沢真臣と井上馨が慶応二年九月二日(1866年10月10日)に宮島で会談した結果、停戦合意が成立した。

 家茂の後継として、老中の板倉勝静(いたくらかつきよ)と小笠原長行(おがさわらながみち)は慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞したが、慶応二年八月二十日(1866年9月28日)に徳川宗家を相続する。慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に将軍宣下を受け将軍に就任する。慶喜は第二次長州征討停戦の直後から、フランスの支援を受けて旧式化が明らかとなった幕府陸軍の軍制改革に着手した。

板倉 勝静
小笠原 長行

 慶応二年十二月二十五日(1867年1月30日)に孝明天皇が崩御する。慶応三年一月九日(1867年2月13日)に睦仁親王が満十四歳で践祚(せんそ)する。元服前の践祚であったので、立太子礼を経ずに皇位継承をした。

孝明天皇
明治天皇(睦仁親王)

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に慶喜は政権返上を明治天皇に奏上し、翌日勅許される(大政奉還)。慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、慶応四年一月三日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いが勃発する。慶喜は陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静、酒井忠惇(さかいただとし)、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)、桑名藩主・松平 定敬(まつだいらさだあき)らと共に開陽丸で江戸に退却する。

酒井 忠惇
松平 容保
松平 定敬

 明治元年三月九日(1868年4月1日)に高橋泥舟の推薦により徳川慶喜から使者として命じられた山岡鉄舟が駿府へ交渉へ行く前に初対面の海舟と基本方針を打ち合わせをする。海舟は泥舟に西郷隆盛宛の書を授けた。同年三月十三日と十四日(同年4月6日と7日)に海舟と西郷隆盛の会談が実現して江戸城無血開城となる。

高橋泥舟
山岡鉄舟
西郷隆盛

 明治五年三月三日(1872年4月10日)に海舟は明治新政府の要請で東京へ向かい、赤坂氷川神社の近くで住居を構え生活することになる。明治八(1875)年四月二十五日に元老院議官へ転属したが、同年十一月二十八日に辞職して下野する。

 晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごす。明治三十二(1899)年一月十九日に勝海舟は薨去。七十五年の生涯を終えた。

著作・伝記・評伝

氷川清話 (講談社学術文庫)

勝海舟 歴史を動かす交渉力

新訂 海舟座談 (岩波文庫)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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