桑原武夫

概要

 桑原武夫(くわばらたけお) 明治三十七(1904)年甲辰(きのえたつ41)五月十日生誕 -昭和六十三(1988)年四月十日薨去(八十三歳)は、フランス文学・文化研究者、評論家。

経歴

明治三十七(1904)年甲辰(きのえたつ41)五月十日に桑原武夫は福井県敦賀郡鶴賀町蓬莱(現、福井県敦賀市)で京都帝国大学教授の父・桑原隲蔵(じつぞう)の子として誕生する。

  京都第一中学校、第三高等学校を経て昭和三年(1928年)に京都帝国大学文学部を卒業する。 昭和二十三年(1948年)に京都大学人文科学研究所教授に就任する。昭和六十二年(1987年)に文化勲章を受章する。 昭和六十三(1988)年四月十日に桑原武夫は薨去。八十三年の生涯を終えた。

貝塚茂樹

概要

 貝塚茂樹(かいづかしげき) 明治三十七(1904)年甲辰(きのえたつ41)五月一日生誕 -昭和六十二(1987)年二月九日薨去(八十二歳)は、東洋学者、中国史学者。

経歴

  明治三十七(1904)年甲辰(きのえたつ41)五月一日に貝塚茂樹は東京都で地質学者の父・小川琢治の次男として誕生する。

 京都第一中学校、第三高等学校を経て昭和三年(1928年)に京都帝国大学文学部史学科を卒業する。同年、四月に 京都帝国大学大学院文学研究科に進学する。昭和二十四(1949)年四月に京都大学科学研究所教授に就任する。

 昭和四十三(1968)三月に京都大学を定年退官する。同年四月に京都大学名誉教授となる。昭和五十九(1984)年に文化勲章を授章する。 昭和六十二(1987)年二月九日に貝塚茂樹は薨去。八十二年の生涯を終えた。

美濃部亮吉

概要

 美濃部亮吉(みのべりょうきち) 明治三十七(1904)年甲辰(きのえたつ41)二月五日生誕 -昭和五十九(1984)年十二月二十四日逝去(八十歳)は、マルクス経済学者、政治家、東京都知事、参議院議員。

経歴

 東京府で憲法学者の父・美濃部達吉と母・多美子の長男として誕生する。

 大正五年(1916年)に東京高等師範学校附属小学校(現、筑波大学附属小学校)を卒業する。 大正十年(1921年)に東京高等師範学校附属中学校(現、筑波大学附属中学校 ・高等学校)を卒業する。

  大正十二年(1923年)に 第二高等学校を卒業する。昭和二年(1927年)に東京帝国大学経済学部を卒業する。同年、 東京帝国大学助手となる。昭和十年(1935年)に法政大学教授に就任する。

 昭和二十一年(1946年)に内閣統計委員会委員に任命され、事務局長を兼任する。昭和四十二年(1967年)に東京都知事選挙に社会党・共産党薦で立候補して当選する。 昭和五十四年(1979年)に都知事を退任する。 昭和五十年(1980年)に参議院議員選挙に出馬して当選する。 昭和五十九(1984)年十二月二十四日に美濃部亮吉は逝去。八十年の生涯を終えた。

稲山嘉寛

概要

 稲山嘉寛(いなやまよしひろ)明治三十七(1904)年甲辰(きのえたつ41)一月二日生誕 -昭和六十二(1987)年十月九日逝去(八十三歳)は、実業家、財界人。

経歴

  明治三十七(1904)年甲辰(きのえたつ41)一月二日に稲山嘉寛は東京市京橋区銀座(現、東京都中央区銀座)で「稲山銀行」頭取の父・稲山伝太郎の二男として誕生する。

 第二高等学校を経て東京帝国大学経済学部商業学科に入学する。昭和二年(1927年)に官営八幡製鐵所に就職する。昭和三十七年(1962年)に 八幡製鐵の社長に就任する。 昭和四十五年(1970年)に 八幡製鐵・富士製鐵合併による新日本製鐵の社長に就任する。 昭和五十五年(1980年)に 第5代経団連会長に就任する。 昭和六十二(1987)年十月九日に稲山嘉寛は逝去。八十三年の生涯を終えた。

小津安二郎

概要

 小津安二郎(おづやすじろう) 明治三十六(1903)年癸卯(みずのとう40)十二月十二日 生誕 -昭和三十八(1963)年 十二月十二日逝去(六十歳)は、映画監督、脚本家。

経歴

明治三十六(1903)年癸卯(みずのとう40)十二月十二日に小津安二郎は、東京市深川区亀住町4番地(現、東京都江東区深川一丁目)で父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として誕生する。

  大正五年(1916年)に、三重県立第四中学校(現、 三重県立宇治山田高等学校)に入学して寄宿舎に入る。大正十一年(1922年)に宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任する。

 大正十二(1923)年八月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社する。昭和二(1927)年十一月に 蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動する。 昭和三十八(1963)年 十二月十二日に小津安二郎は逝去。六十年の生涯を終えた。

小林多喜二

概要

 小林多喜二(こばやしたきじ) 明治三十六(1903)年 癸卯(みずのとう40)十二月一日生誕 -昭和八(1933)年二月二十日逝去(二十九歳)は 、プロレタリア小説家。

経歴

  明治三十六(1903)年 癸卯(みずのとう40)十二月一日に小林多喜二は、秋田県北秋田郡下川沿村(現、秋田県大館市)で小作農家の次男として誕生する。

 明治四十(1907年)に伯父の計らいによって一家全員で小樽・若竹町の伯父の別宅に移住する。伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校を経て小樽高等商業学校(現、小樽商科大学)へ進学する。

 大正十三年(1924年)に小樽高等商業学校を卒業する。同年、北海道拓殖銀行小樽支店に入行する。昭和四年(1929年)に『蟹工船』を『戦旗』に発表する。プロレタリア文学の旗手として注目を集める。

  昭和八(1933)年二月二十日に小林多喜二は築地署に連行され、拷問により逝去。 二十九年の生涯を終えた。

堀越二郎

概要

 堀越二郎(ほりこしじろう) 明治三十六(1903)年 癸卯(みずのとう40)六月二十二日生誕 -昭和五十七(1982)年一月十一日逝去(七十八歳)は、 航空技術者。

経歴

  明治三十六(1903)年 癸卯(みずのとう40)六月二十二日に堀越二郎は群馬県藤岡市で誕生する。

 藤岡中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業する。三菱内燃機製造(現、三菱重工業)に入社する。昭和十二年(1937年)より十二試艦上戦闘機の設計を行う。零式艦上戦闘機の設計を行う。

 戦後は三菱重工業参事、新三菱重工業参与を経た後退職。東京大学、防衛大学校、日本大学などで教鞭をとる。 昭和五十七(1982)年一月十一日に堀越二郎は逝去。七十八年の生涯を終えた。

三岸好太郎

概要

 三岸好太郎(みぎしこうたろう) 明治三十六(1903)年 癸卯(みずのとう40)四月十八日生誕 -昭和九(1934)年七月一日逝去(三十一歳)は、洋画家。

経歴

 北海道札幌区(現、北海道札幌市)で父・橘巌松と母・三岸イシの子として誕生する。

 大正五年(1916年)に父を亡くしてから、母・イシが質屋に住み込みで働き始め、札幌で所帯を持っていた異父兄・梅谷松太郎(子母澤寛)に育てられる。札幌第一中学校(現、北海道立札幌南高等学校)を卒業後、画家を志して 大正十年(1921年)に上京する。

  大正十二年(1923年)に第1回春陽展に『檸檬持てる少女』が入選する。 大正十三年(1924年)に第2回春陽展に『兄及ビ彼ノ長女』などを出品して春陽会賞を主席で受賞する。同年、吉田節子と結婚する。 昭和九(1934)年七月一日に三岸好太郎は胃潰瘍で逝去。三十一年の生涯を終えた。

羽仁説子

概要

 羽仁説子(はにせつこ) 明治三十六(1903)年 癸卯(みずのとう40)四月二日生誕 -昭和六十二(1987)年七月十日逝去(八十四歳)は、教育評論家。

経歴

  明治三十六(1903)年 癸卯(みずのとう40)四月二日に羽仁説子は東京でジャーナリストで教育家の父・羽仁吉一と ジャーナリスト の母・羽仁もと子の娘として誕生する。

  大正十五(1926)年四月八日に歴史家の森五郎と結婚する。昭和二十一年(1946年)に布陣民主クラブの創設に参加する。昭和二十七年(1952年)に日本子どもを守る会の発足に参加する。 昭和六十二(1987)年七月十日に羽仁説子は逝去。八十四年の生涯を終えた。

西堀栄三郎

概要

 西堀栄三郎(にしぼりえいざぶろう)明治三十六(1903)年癸卯(みずのとう40)一月二十八日生誕 -平成元(1989)年四月十三日逝去(八十六歳)は、登山家、無機化学者、技術者。

経歴

 明治三十六(1903)年癸卯(みずのとう40)一月二十八日に西堀栄三郎は京都府で誕生する。

 京都府立京都第一中学校、第三高等学校を経て京都帝国大学理学部化学科を卒業する。 京都帝国大学講師、助教授を歴任した後、東京電機(東芝)に就職する。 東芝技術本部長時代に、海軍の要請を受けて真空管「ソラを開発して技術院賞を受賞する。

 第二次世界大戦後に京大に助教授、教授として復帰する。昭和三十一年(1956年)に第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長を務める。日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事を務める。 平成元(1989)年四月十三日に西堀栄三郎は逝去。八十六年の生涯を終えた。