宮沢賢治

概要

 宮沢賢治(みやざわけんじ)明治二十九(1896)年丙申(ひのえさる33)八月二十七日生誕 -昭和八(1933)年九月二十一 日逝去(三十七歳)は、詩人、童話作家。

経歴

  明治二十九(1896)年丙申(ひのえさる33)八月二十七日に宮沢賢治は岩手県稗貫郡花巻町(現、岩手県花巻市)で父・宮澤政次郎と母・イチの長男として誕生する。

 明治三十六年(1903年)に花巻川口尋常諸学校(2年後に花城尋常小学校へ改名)に入学する。成績は優秀で6年間全科目甲だった。明治四十二(1909)年四月に岩手県立盛岡中学校(現、盛岡第一高等学校)に入学する。

 大正三(1914)年三月に盛岡中学を卒業する。父・政次郎は盛岡高等農林学校(現、岩手大学農学部)への進学を認める。賢治は受験のため猛勉強に励む。同時期に、和照 妙法蓮華経』を読み、その中の「如来寿量品」に体が震えるほどの感銘を受ける。

  大正四(1915)年四月に 盛岡高等農林学校に首席で入学する。 大正九(1920)年五月に農林学校研究生を卒業する。助教授に推薦されたが、父子ともに実業に進む考えであったため辞退する。

  大正十(1921)年一月二十三日の夕方に東京行きの汽車に乗り家出する。翌朝、上野駅に到着して鶯谷の国柱会館を訪ね、「下足番でもビラ張りでもする」と頼みこむ。政次郎は法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった。同年十二月三日に稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)の教諭となる。

  大正十三(1924)年四月二十日に『心象スケッチ春と修羅』を吉田印刷所で1000部を自費出版する。 大正十五(1926)年三月三十一日に花巻農学校を依願退職する。

昭和六(1931)年二月二十一日に東北砕石工場花巻出張所が開設する。技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り・販売などで東奔西走する。同年九月十九日に40キログラムもの製品見本を鞄に詰めて上京する。 同年九月 二十日に高熱で倒れ死を覚悟して、家族に遺書を書く。同年 九月 二十八日に花巻に戻って、すぐ病臥生活となる。同年十一月に手帳に『雨ニモマケズ』を書く。 昭和八(1933)年九月二十一 日に宮沢賢治は逝去。三十七年の生涯を終えた。

渋沢敬三

概要

 渋沢敬三(しぶさわけいぞう) 明治二十九(1896)年丙申(ひのえさる33)八月二十五日生誕 -昭和三十八(1963)年十月二十五 日逝去(六十七歳)は、実業家、財界人、民俗学者、政治家。

経歴

明治二十九(1896)年丙申(ひのえさる33)八月二十五日 に渋沢敬三は東京深川で父・渋沢篤二と母・敦子の長男として誕生する。

 明治四十二年(1909年)に東京高等師範学校附属小学校(現、筑波大学附属小学校)を卒業する。東京高等師範学校附属中学校(現、 筑波大学附属中学校・高等学校)入学する。深川でペストが流行ったため、三田に転居する。

 大正二年(1913年)に渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡する。祖父の栄一は敬三を後継者に指名する。大正四(1915)年四月に東京高等師範学校附属中学校を卒業する。澁澤同族株式会社が設立され同社の社長となる。同年、九月に仙台の第二高等学校に入学する。

  大正七(1918)年七月に第二高等学校卒業する。同年九月に東京帝国大学法科大学経済学科に入学する。大正十年(1921年)に「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」 をつくる。同年、東京帝国大学経済学部を卒業し、横浜正金銀行に入行する。

 大正十一年(1922年)に岩崎弥太郎の孫・木内登喜子と結婚する。ロンドン支店勤務を命ぜられ渡英する。昭和元年(1926年)に横浜正金銀行を退職する。第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任する。

 昭和九年(1934年)に日本民族学会を設立し、理事となる。 昭和十二年(1937年)に保谷に民族学博物館を開設し、アチック・ミューゼアムの資料を移管する。昭和十六年(1941年)に第一銀行副頭取に就任する。 昭和十九年(1944年)に日本銀行総裁に就任する。

 昭和二十年(1945年)に貴族院議員に就任する。空襲により三田の自邸一部を焼失する。幣原内閣の大蔵大臣に就任する。日本銀行総裁を辞任する。昭和二十一年(1946年)に預金封鎖、新円切り替えを実施する。内閣総辞職により蔵相を辞任する。澁澤同族株式会社が財閥解体の持株会社指定を受ける。公職追放される。財産税のため三田の自邸を物納する。

 昭和二十六年(1951年)に公職追放解除となる。経済団体連合会相談役に就任する。昭和二十八年(1953年)に国際電信電話(KDD)設立に伴い、社長に就任する。十和田科学博物館を開設する。

 昭和三十年(1955年)に渋沢栄一伝記資料刊行会より『渋沢栄一伝記資料』の刊行を開始する。 昭和三十一年(1956年)に文化放送会長、KDD会長、日本モンキセンター初代会長に就任する。

  昭和三十二年(1957年)に外務省移動大使として、中南米各国を歴訪する。 昭和三十六年(1961年)に東洋大学理事に就任する。小川原湖民俗博物館を開設する。 昭和三十八(1963)年十月二十五日に渋沢敬三は逝去。六十七年の生涯を終えた。

鹿島守之助

概要

 鹿島守之助(かじまもりのすけ)明治二十九(1896)年丙申(ひのえさる33)二月二日生誕 -昭和五十(1975)年十二月三日逝去(七十九歳)は、外交官、実業家、政治家、外交史研究家。法学博士。鹿島建設会長。

経歴

 明治二十九(1896)年丙申(ひのえさる33)二月二日 に鹿島守之助は兵庫県揖保郡半田村新在家(現、たつの市揖保川町新在家)で父・永富敏夫と母・くわんの四男として誕生する。

 龍野中学、第三高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入省する。昭和二(1927)年二月に鹿島精一の長女卯女と結婚して鹿島姓となる。昭和五(1930)年一月に外務省を退官して翌月に衆議院議員選挙立候補するが落選する。

 戦後公職追放となる。追放解除後の昭和二十三年(1953年)の参議院選挙で当選する。経営者としての手腕は「鹿島中興の祖」といわれるほどであり、「事業成功秘訣二十箇条」はよく知られる社訓である。 昭和五十(1975)年 十二月三日 に鹿島守之助は逝去。七十九年の生涯を終えた。

南条徳男

概要

 南条徳 男(なんじょうとくお)明治二十八(1895)年乙未(きのとひつじ32)七月七日生誕 -昭和四十九(1974)年十一月一日逝去(七十九歳)は、政治家。建設大臣、農林大臣。

経歴

  明治二十八(1895)年乙未(きのとひつじ32)七月七日に南条徳男は北海道胆振支庁室蘭村(現、室蘭市)で誕生する。

  東北中学校(現、東北高等学校)、第二高等学校(現、東北大学)を経て、大正九年(1920年)に東京帝国大学法学部独法科を卒業後、弁護士となる。

 学生時代から日本の人口・食糧問題に関心を持ち、自身の「ブラジルへの100万人移住」構想を実現すべく、立憲政友会に入党する。当時総裁だった原敬に面会し、移民政策について意見を述べる。大正十二年(1923年)に立憲政友会法曹団を結成して幹事長となる。

 昭和三十一年(1956年)に石橋内閣の建設大臣として初入閣する。昭和三十五年(1960年)に第一次池田内閣の農林大臣に就任する。 昭和四十九(1974)年十一月一日に南条徳男は逝去。七十九年の生涯を終えた。

佐藤賢了

概要

 佐藤賢了(さとうけんりょう) 明治二十八(1895)年乙未(きのとひつじ32)六月一日生誕 -昭和五十(1975)年二月六日逝去(七十九歳)は、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

経歴

 明治二十八(1895)年乙未(きのとひつじ32)六月一日 に佐藤賢了は石川県河北郡花園村字今町(現、石川県金沢市今町)で誕生する。

 大正三(1914)年四月に陸軍士官学校に入学する。 大正六(1917)年 五月二十五日に 陸軍士官学校29期を卒業する。大正十四(1925)年十一月二十七日に 陸軍大学校37期を卒業する。

 昭和五(1930)年五月にアメリカに 昭和七(1932)七月まで駐在する。 昭和七(1932)八月に砲兵少佐に進級する。野重砲兵第6連隊大隊長に就任する。昭和十二(1937)年三月 砲兵中佐に進級する。

  昭和十三(1938)年七月十五日に航空兵大佐に進級する。新聞班長兼大本営報道部長に就任する。日本評論昭和13年12月号に「東亜協同体の結成」を発表する。 昭和十六(1941)年十月十五日に陸軍少将に進級する。

  昭和二十(1945)年三月一日に陸軍中将に進級する。 同年十二月に予備役編入となる。最年少のA級戦犯となり、極東国際軍事裁判に出廷する。終身刑の判決を受けて服役し、A級戦犯では最も遅くまで拘留され昭和三十一(1956)年三月三十一日に釈放される。 昭和五十(1975)年二月六日に佐藤賢了は逝去。七十九年の生涯を終えた。

森下信衛

概要

森下信衛(もりしたのぶえ)明治二十八(1895)年乙未(きのとひつじ32)二月二日生誕-昭和三十五(1960)年六月十七日逝去(六十五歳)は、海軍軍人。最終階級は海軍少将。

経歴

 明治二十八(1895)年乙未(きのとひつじ32)二月二日 に森下信衛は 愛知県常滑市で誕生する。

 大正六(1917)年十一月二十四日に海軍兵学校45期を卒業する。昭和四(1929)年十一月三十日に海軍少佐に進級する。同年、海軍大学校に入校する。昭和六(1931)年十一月二十七日に海軍大学校29期を卒業する。

 昭和十四(1939)年十一月十五日に海軍大佐に進級する。昭和十九(1944)年一月二十五日に戦艦大和艦長に就任する。同年十月 十五日に海軍少将に進級する。同年十一月二十五日に 第2艦隊参謀長に就任する。

  昭和二十(1945)年四月七日に沖縄へ海上特攻隊として第2艦隊参謀長として戦艦大和に乗艦する。大和の沈没後、生還する。同年 十一月三十日に予備役編入となる。 昭和三十五(1960)年六月十七日に森下信衛は逝去。六十五年の生涯を終えた。

松下幸之助

概要

 松下幸之助(まつしたこうのすけ) 明治二十七(1894)年甲午(きのえうま31) 十一 月二十七日生誕 -平成元(1989)年四月二十七日薨去(九十四歳)は、実業家、発明家、著述家。

経歴

  明治二十七(1894)年甲午(きのえうま31) 十一 月二十七日 に松下幸之助は和歌山県海草郡和佐村旦ノ木(現、 和歌山県和歌山市禰宜)で小地主の父・松下政楠と母・とく枝の三男として誕生する。

 明治三十二年(1899年)頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めたが、父には商才がなく店を畳む。幸之助は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。後に奉公先を五代自転車に移す。

 大阪市に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志す。16歳で大阪電灯(現、関西電力)に入社し、7年間勤務する。電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。

 大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現、大阪市 東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男、および友人2名の計5人で、 電球 ソケットの製造販売に着手する。

 事業拡大に伴い、大正七年(1918年)に大阪市北区西野田大開町(現、大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所(現、パナソニック)を創業する。昭和七年(1932年)を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示する。

 戦後、GHQによって制限会社に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。井植兄弟を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁する。昭和二十一(1946)年十一月にPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出す。

  平成元(1989)年四月二十七日に松下幸之助は薨去。九十四年の生涯を終えた。

豊田喜一郎

概要

豊田喜一郎(とよだきいちろう)明治二十七(1894)年甲午(きのえうま31)六月十一日生誕 -昭和二十七(1952)年三月二十七日逝去(五十七歳)は、経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。

経歴

 明治二十七(1894)年甲午(きのえうま31)六月十一日に 豊田喜一郎は静岡県敷知郡吉津村山口(現在の静岡県湖西市山口)で豊田佐吉と佐原たみの長男として誕生する。

旧制明倫中学校(現、愛知県立明和高等学校)、第二高等学校(現、東北大学)甲組工科を経て、大正九年(1920年)に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。

 大正十( 1921)年三月に豊田紡績に入社する。父から発明より経営に重点を置くように指示されるが、試験工場を作り自動織機の開発を開始する。当時、黎明期にあった自動車産業が将来大きく発展すると考え、昭和八( 1933)年九月一日に豊田自動織機製作所内に自動車製作部門(のちに自動車部)を新設する。

  昭和十二年( 1937年)にトヨタ自動車工業株式会社として独立して、同社の副社長に就任する。 昭和二十七(1952)年三月二十七日に豊田喜一郎は逝去。五十七年の生涯を終えた。  

毛沢東

概要

毛沢東(もうたくとう・ 毛泽东・ 毛澤東・ Mao Zedong Mao Tse-Tung・マオ・ツォードン)光緒19年11月十九日・ 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30十二月二十六日生誕 -昭和五十一(1976)年九月九日逝去(八十二歳)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)十二月二十六日に毛沢東は清国の湖南省湘潭県韶山市で父・毛貽昌と母・文素勤の5人兄弟の三男として誕生する。

従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学する。1911年春に毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学への入学を希望した。同年、辛亥革命が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する。清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻る。

 1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業する。1919年に帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となる。1920年に長沙師範学校付属小学校長となる。1921年7月23日に毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。1923年6月の第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれる。

 1937年7月7日に始まった日中戦争(支那事変)では抗日戦線を展開する。国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。

 1945年の第7回党大会で 毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、同年6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任する。1945年8月14日に日本はポツダム宣言諾を連合国側に通告して同年8月15日に終戦を迎える。

 1946年6月26日に蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令して国共内戦が始まる。国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得する。

 国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開する。人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与える。1949年1月に人民解放軍は北平(北京)に入城して同年4月23日に国民政府の根拠地・首都南京を制圧する。

 1949年10月1日に毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言する。蔣介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続する。

  中華人民共和国の 建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日に突如として社会主義への移行を表明する。この方針転換は、周恩来など多くの指導者を困惑させた。毛沢東は中華人民共和国を新民主主義国家から社会主義国家に変貌させるため、国家機構の改造に着手する。

 スターリン批判や対米政策をめぐって毛沢東はソ連共産党第一書記のフルシチョフと不仲となり、1950年代後半から中ソ対立が深刻化していく。1962年のキューバ危機は、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難する。

 1959年4月27日に毛沢東は大躍進政策失敗の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲る。暴力的大衆運動、「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。文化大革命では大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇国家主席ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及ぶ。

 毛沢東が世界に注目された事件は1972年2月18日に北京において行われたアメリカ合衆国大統領のニクソンとの会談である。日本の田中角栄首相もニクソンの後を追うように中国を訪問して首脳会談を行い、日中国交正常化を果たす。

 昭和五十一(1976)年九月九日に毛沢東は逝去。八十二年の生涯を終えた。

早川徳次

概要

早川徳次(はやかわとくじ) 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)十一月三日生誕 -昭和五十五(1980)年六月二十四日逝去(八十六歳)は実業家、発明家。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)十一月三日に早川徳次は東京市日本橋久松町42番地(現・東京都中央区日本橋久松町)でちゃぶ台製造販売業の父・早川政吉と母・花子の三男として誕生する。

 仕事の無理が祟って花子が胸を患ったため、早川家に出入りしていた肥料屋の出野家の養子となる。養母が急逝し出野家は後妻を迎えるが、徳次は継養母から厳しく当たられる。錺屋(かざりや:金属細工業)職人の坂田芳松の店で丁稚奉公になる。明治三十四(1901)年九月十五日に出野家を出る。

 明治四十二(1909)年四月十五日に、7年7か月の年季奉公を勤め上げ、その後、1年間のお礼奉公を終えて、徳次は一人前の錺職人となる。大正元(1912)年九月十五日に本所区松井町1丁目30番地(現・江東区新大橋)の民家を借り従業員2名の金属加工業を開業する。

 大正四年(1915年)に早川姓に復籍して「早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)」の名称で特許を申請する。兄の政治と「早川兄弟(けいてい)商会金属文具製作所」を設立して販売を開始する。第一次世界大戦で品薄となった欧米で売れるようになり、海外での高い評価が伝わると日本国内でも注文が殺到するようになる。

 大正十二(1923)年九月一日に関東大震災が発生する。2人の子供は死亡、文子も重傷を負い、工場も焼け落ちてしまう。罹災した従業員70名と被害を免れた亀戸の長屋で生活し、事業復興のため奔走していたが、重傷の妻を亡くす。関東地区で販売を委託していた日本文具製造(後のプラトン文具:1954年廃業)から、特約販売の解消及び「特約契約金1万円と融資金1万円の計2万円」の即時返済を迫られる。早川兄弟商会を解散して事業を全て日本文具製造に譲渡することを決意する。

  大正十三(1924)年九月一日に大阪府東成郡田辺町大字猿山25番田(現・大阪市阿倍野区長池町)に「早川金属工業研究所」を設立する。当初は万年筆の付属金具の製造販売を行っていたが、新規事業を模索して海外で実用化されていたラジオに興味を持つ。

 大正十四(1925)年四月に国産第1号機の鉱石ラジオ受信機の開発に成功する。ラジオは爆発的に売れ、“シャープ”というブランド名を付ける。昭和四十五(1970)年一月一日に早川電機工業株式会社から「シャープ株式会社」へ社名を変更する。 昭和五十五(1980)年六月二十四日に早川徳次は逝去。八十六年の生涯を終えた。